今日は覚え書きとして方丈記について。
鴨長明は、平安末期に今日の神社の神事をつかさどる家に生まれた。
が、父の早逝で祖母の家を継ぐがその縁も切れて、30歳を過ぎて小さな庵(いおり)に住みはじめる。
和歌を詠み、歌がたびたび歌集に選ばれたりと歌人として活躍するようになる。
後鳥羽院が下鴨神社の神職を与えようとしたが横やりにより断たれる。
50歳の春に出家。大原で5年を過ごし、日野で方丈(約3メートル四方)の庵を構えた。
その時のことを主に書いたのが方丈記。
(序文)
ゆく河(かわ)の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と棲(すみか)と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに棟を並べ、甍(いらか)を争える高き卑しき人への住ひは、
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年(こぞ)焼けて、今年作れり。あるいは大家(おほいへ)ほろびて小家(こいへ)となる。
住む人もこれに々。
所も変わらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。
朝(あした)に死に夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人いずれかたより来(きた)りて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、誰(た)がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主(あるじ)と棲(すみか)と無常を争うさま、いはばあさがほの露に異ならず。
或は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。
或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕(ゆうべ)を待つことなし。
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人と住む家も時の移ろいとともに変遷することを、川の流れや泡、そして朝顔の露に例えている。
仮の宿なのに、どうしてこんなに家に心悩まし、飾り立ててるのであろう・・・
朝顔についた朝露。最初に露が落ち、花は後に残る。が、残っても朝日に当たり枯れてしまう。
あるいは花が先にしぼみ、梅雨は消えなくても、夕方まではもたない。
・・・・・・・・・・・
こんな序文で始まる方丈記。
そのあと、大火(1177年)、辻風(1180年)、飢饉(1181年)、大地震(1185年)での大被害についてと、福原遷都(1180)によって
都がすっかり寂しくなってしまったこと(その年に都は戻ってくるが)について述べている。これが序文の部分が指しているところ。
そして自分の過去、小さいながらも方丈の庵での住まいの心地よさ、山での四季の趣や良さを述べている。
最後には仏道の修行ではじめたのに、心は世俗に濁っている(のに気がついた)のに気がついたと記している。
・・・・・・
琵琶を弾いて和歌を詠んで風流を好んだ鴨長明。
彼の文章の一つ一つに深い重みを感じる。
特に序文が素晴らしい。万人に共感するものがある。
彼も800年もの時を超えた人々に読まれるとは想像もしていなかっただろう。
たくさんの挫折も味わい、自分の居場所(家)を求め、最終的に3メートル四方という人里離れた山での
小さな家での生活の素晴らしさを語っている。
花や月を愛で鳥・虫の音を聴き、時折、童と山に入り草実を摘み、あちこち一人旅にも出かけ・・・
気ままな生活。
が、ある時、彼は気がついた。この方丈の生活がいいとこだわっていた己に・・・
修業しているつもりが、実はこの世に未練をもっていたことに。
そう気がついて、阿弥陀仏を何度か唱えて方丈記をしめくくっている。
家にこだわっていた彼。
彼は本当のところは人の集まる場所で大きな家に住んでみたかったのではないだろうか。
もし神社の神官になることができていたなら、彼の人生はまた違っていたのかもしれない。
*「方丈記・徒然草・歎異抄」(小学館)を一部抜粋・参照
(今日のいい事)
夕食のブリの竜田揚げがとっても美味しかったこと。
先日、買った一匹100円の厚切りの天然ブリ3枚。血あいが出てきてるし、
照り焼きだと生臭くなりそう。どうしよう・・・と思って竜田揚げのレシピで
作ってみたら・・・結構、美味しくてほっとしました。安物買いの銭失いにならなくて(^^)
(作り方)
(湯をさっとかけて)、ブリに塩をふって、たれ(しょうゆ・みりん・酒多さじ3、しょうがスライス、ネギ)につけて、
片栗粉をまぶして中華鍋でサラダ油ほんの少量とごま油であげました。仕上げにごまと万能ネギとポン酢で。(NHK料理レシピより)
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Last Modified : 2019-08-08